古典論理学における存在概念について

この論文では、古典述語論理における存在概念について調べてみたいと思います。述語論理では、(論理的な)存在概念は量化子の振る舞いで完全に把握されていることになっています。逆に量化子の振る舞いこそ(論理的な)存在概念に外なら無いとさえ言う人もいるでしょう。ですが、このような存在概念に何も問題が無いと言う切ることはできるでしょうか。存在概念が言語と実在が接する場面で生じるのなら、少なくとももう一つ指示と言う場面を忘れるわけには行かないでしょう。また古典述語論理は、その対象領域は空でないことや、そのすべての項は指示対象を持つなどの仮定を置いていることは有名です。量化子の解釈さえ、少なくとも2通りの見解がそれぞれ支持されています。古典述語論理における存在概念という主題について考える手がかりとして、これらの問題をまず考えてみたいと思います。

現在資料を収集しています。以下のような問題を考えてみたいと思っています。(もちろんすべてを論文で取り上げるつもりなどありません。)

1. 存在は述語か
この話題は現在あまり聞くことがないように思います。
Pears,D.F., "Is Existence a Predicate?", in Strawson (ed) Philosopical Logic

Thomson, J., "Is Existence a Predicate?", in Strawson (ed) Philosopical Logic

を知るだけです。また「含意と前提」に関する話題についてはどこまで読むべきか迷っています。これは語用論に属する話題であると切り分けられるのが普通のようですが、これらの点まで踏み込んで検討するのは荷が重すぎると感じています。

2.量化子の解釈について
量化子の2つの解釈、代入例解釈と対象解釈については、 Marcus vs. Quine の線を押えることが第一だと考えています。前者については
Marcus, R.B., Modalities, Oxford U.P., 1993
後者については
Quine, W.V., The Ways of Paradox and Other Essays, Harvard U.P., 1966
Quine, W.V., Ontological Relativity and Other Essays, Columbia U.P.,1969
Quine, W.V., Roots of Reference, Open Court, 1973
でカバーできるかなと思っています。

あと有名もので
Kripke, S. "Is There a Problem about Substitutional Quantification?", in Truth and Meaning, Evans,G. and MacDowell,J., Oxford U.P., 1976

を知っています。

3.自由論理
これについては、まず
Bencivenga,E., "Free Logics" in Handbook of Philosopical Logic Volume III, Gabbay,D., and Guenthner, F. (eds)
を押えることまでしか考えていません。


これらの論文やその参照文献以外に、何か有益な文献をご存知の方がいらっしゃったら、是非教えて頂きたいと思っています。宜しくお願いします。

しかしアマチュアにとって論文を読むのと同じくらいの難関は、論文を手に入れることです。折角その存在を教えて頂いても、手に入れることができない可能性は非常に大きいと思います。また第一論文も完成まで7年ほどかかっています。これから資料を集め始めて一体いつ出来上がるのは想像もつきません。