同一性命題

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4 メタ言語説擁護

4.1 メタ言語説の難点

 メタ言語説によると、同一性命題によって主張されるのは言語についての事実のみである。メタ言語説に対する批判の多くはこの点に関するものである。ここでは以下の批判を取り上げる。(4a)たとえ我々が全く言語を持たなかったとしても、ヘスペラスとフォスフォラスの同一性を疑ったり、それを信じたりすることがあり得る。メタ言語説の言う通り同一性命題の主張が言語についての事実のみであるならこのようなことはあり得ないはずである。(4b)古代の人々がヘスペラスとフォスフォラスが同一かどうかを知りたがったときには、言語現象についてではなく、天文学的事実を知りたがったのである。そしてその結果得た同一性命題は、言語的情報ではなく、天文学的情報を我々にもたらすのである。これも同じくメタ言語説の主張が誤っていることを示す。また(4c)「ヘスペラス=フォスフォラス」の真偽は、望遠鏡などによる天文学的観測なしには決して決定できないが、メタ言語説論者の言うようにこれが言語についての事実のみを主張するのであるなら、言語についての事実が望遠鏡による観測によって決定されるという奇妙なことになる。これは、この同一性命題は少なくとも言語的事実のみを主張するのではないことを示している。これら(4a)〜(4c)の批判から、「ヘスペラス=フォスフォラス」のような同一性命題によって主張されるのものは非言語的的事実であり、それ故同一性命題によって主張されるのは言語的的事実のみであるとするメタ言語説は誤っているという主張が導かれる。

 最後にメタ言語説では無限後退の問題が生ずるという次のような批判がある。メタ言語論者によると、同一性命題「a=b」が真であるのは、名前aとbが同じ対象を指示するときであるとされるが、解明項に解明したい当の概念「同じ」が現われており、それ故これは解明になっていない。解明項における「同じ」を同様に分析するなら再び新たな解明項に「同じ」が現われ、無限後退に陥る。これはしばしばメタ言語説に対する決定的反論とされる。以下、これらの批判について考察しよう。

4.2 同一性命題を疑うこと

 たとえ人間が言語を持たなかったとしても、ヘスペラスとフォスフォラスの同一性を疑ったり、それを信じたりすることがあり得るが、同一性命題が言語についての事実ならこのようなことはあり得ないという批判(4a)について考えよう。この批判についてまず問題となるのは、言語(ないし言語に類したもの)なしに思考することが可能かという点である。これを完全に拒否することこそ分析哲学の基本原則だという学者もいるが、私はこれについて細部にわたる明確な態度を持っていない。

 しかしこの問題自体に深入りせずとも、メタ言語説の可能を擁護する次のような議論が可能である。まず、我々がある同一性を考察する際には、それが言語に過ぎないにせよ、そうでなく何らかの心理的実在であるにせよ、必ず何らかの「対象の代理」を思考の内に持つことを確認しよう。例えばある人が真昼にヘスペラスとフォスフォラスの同一性を問うときには、眼前にはいずれの対象もない。そのとき彼の思考の中に両者の代理をするものがあるはずである。また彼が明け方にヘスペラスを見、後に夕方にフォスフォラスを見ながらそれがあの明け方の星ヘスペラスと同一かどうかを疑うとき、彼の目の前にはヘスペラスは出てはいない。つまりこの時彼の思考においては少なくともヘスペラスの代理をするものがあることは疑い得ないように思える。ところで、我々は、対象も見ず、対象の代理も思考の内に全く持たずに「それら」の同一性を問うたり(真昼の場合)、あるいはただ一つの対象を眼前にして、もう一つの対象の代理を思考の内に全く持たずに「それら」の同一性を問う(夕方の場合)ことができるであろうか。そのような状況の下では、そもそもそのような問いを立てること自体(不適切とか困難というとかいうのではなく)不可能であろう。それは、この状況で「それら」と複数を使うのが極めて不自然であることからも明らかである。また、ただ一つの対象金星を眼前にして、「それら」の間の関係を問うことも同様に不可能のように思える。観察者が「その」対象を見ていると認識し、「それ」について考えていると認識している限り、「それら」の間の関係を考えることはできない。そして、あくまで「それら」について考えるなら、むしろ眼前にある対象以外のものについて考えているとするほうが自然であるように思われる。以上の考察から、我々が同一性を思考する際には、必ず対象の代理を思考の対象としていると考えられる。もし思考が言語そのものであるならそれは名前に他ならないであろうし、そうでなければ、それは文法などの体系をなすものの一部ではないにせよ、対象を代理し、それを指示するものであるという機能にのみに注目するなら「名前」となんら区別されるべきものではない。以上の議論が正しければ、名前に準ずる対象の代理を持つことなしにヘスペラスとフォスフォラスの同一性を疑うことはできないと結論される。

 次に、同一性命題のメタ言語的解釈は、対象の代理をなし、それを指示するという機能を持つものには、それが言語であろうとなかろうと、すべて適用される説であることを確認しよう。例えば二つの殺人現場に残された二つの血で書かれた記号は、同一の殺人犯を指示しているかもしれない。メタ言語説によると、それらの同一性は、それらが同じ犯人を指示するときに成立する。そして、それが言語であれ血文字であれ表象のような心理的実在であれ、同じ対象に対してその代理が複数あるという可能性は常にある。これらについても、その同一性が問題となり得るが、メタ言語説はこれらに同じ説明を与える。すなわち、それらがただ一つの対象の代理であるときに、それらは同一である。

 以上の考察が正しいなら、たとえ人間が言語を持たなかったとしても、ヘスペラスとフォスフォラスの同一性を疑ったり、それを信じたりすることがあり得るが、同一性命題が言語についての事実ならこのようなことはあり得ないという批判について次のように答えられる。すなわち、言語なしにヘスペラスとフォスフォラスの同一性を疑ったり信じたりすることは確かにあり得るかもしれない。しかし何らの対象の代理も持たずに同一性を疑ったり信じたりすることはできない。もし対象の代理があるなら、そこには言語の場合と同じく、メタ言語説による説明が可能である。同時に、メタ言語説は「言語」についての説であるという主張自体が狭すぎる主張であり、それは「対象の代理という機能を持つものすべて」に適用される説であると考え直すべきである。

 以上はメタ言語説の可能性を擁護する議論であった。しかしこのような議論以前に、この批判についての決定的な疑問は、ある人が「x=y?」と疑うときに、正確には彼は何を疑っているのか明らかではないという点である。彼はxとyの間に対象説論者の主張するような論理的自己同一性が成立しているかどうかを疑っているのであろうか。それともメタ言語説論者の言うような二つの名前の間の共指示性関係が成立するかどうかを疑っているのであろうか。それともそのいずれでもない通時的同一性を疑っているのであるか。例えば、彼がある日にある少年xを見、数年後のある日に青年yを見てそれがあの少年xと同一 かどうかを疑うときのことを考えよう。対象説論者によると論理的自己同一性は各瞬間ごとに成立するはずであるが、彼は「ある日」見た少年と「今」見ている青年を比べているのだから、このような状況では対象説論者の言うような論理的自己同一性を問題としているとは考えられない。この場合一番自然なのは、彼は通時的同一性を問題としていると考えることであろう。もしそうであるなら彼の問う同一性はそもそも対象説とかメタ言語説とかを議論するような同一性ではない。これに対して、自分のことを「y」と名乗る人を 目前にして、彼は以前「x」として紹介された人ではないか、すなわち彼は2つの名を使 っているのではないか、と疑うとき、ここでは通時的同一性と同時に二つの名前が実は共指示的ではないかを疑っていると考えるのが自然である。一方どういう場合であれ、対象説論者の言うような自己同一性が成立しているかを問うことは、不可能ではないが極めて奇異であるように思える。どのような状況においても、眼前に思考の対象があろうかなかろうが、ある対象が自分自身に対して論理的自己同一性を持つことは当然であり、それを真剣に、切実に疑うことは考えにくい。

 これに対して「xとyは論理的自己同一関係にあるか」という「文」について、その真偽に対して切実に疑問を抱くことはできるように思える、と反論されるかもしれない。ここに混乱の素がある。通常我々が「マリリン・モンローは自殺したか」と疑うとき、我々は対象としてのモンローその人について疑問を持っていると考える。しかし「マリリン・モンローは自殺したか」と疑うことで、人間モンローについて彼女が自殺したかどうか疑うのか、モンローの自殺という事件についてそれが発生したかどうかを疑うのか、この文についてそれが真であるという属性を持つかどうかを疑うのか、はっきりしない。それは彼がいかなる存在論を信奉するかにもよるであろう。しかしこの疑問に答える明快な手続きがないなら、「xとyは論理的自己同一関係にあるかと疑うことができる」ことは「論理的自己同一性がある」ことを何ら支持しない。「x=y?という疑問を抱く」ということは、対象説とメタ言語説の検討に用いるには曖昧すぎるように思われる。いずれにせよこの批判はもっと精密化されねば批判として成立しないと思われる。

4.3 同一性命題が主張するもの

 次に、古代の人々が命題「ヘスペラス=フォスフォラス」の真偽を知りたがったときには、言語現象についてではなく、天文学的事実を知りたがったのであり、その結果得たのは天文学的知識の増加である。そしてこの命題は言語的情報ではなく、天文学的情報をもたらす。従ってメタ言語説は誤っているという批判(4b)について考えよう。まず「 a=a は 我々に何の情報も与えないが、 a=b はある情報を与える」という主張は正確な表現では ないことを示そう。この表現では a=b そのものがある情報を与えるように見えるが、これは正しくない。例えば「フーフー=クークー」からいかなる情報が得られるかを考えてみれば良い。それはせいぜい「この世の中にある対象が存在して、フーフーとかクークーとか呼ばれる」といったものであろう。一方「ヘスペラス=フォスフォラス」の場合一見天文学的情報を与えるように見える。これについては次のように説明できる。我々が「ヘスペラス=フォスフォラス」が真であることを知る前には、名前「ヘスペラス」「フォスフォラス」は必ずある種の記述と結び付いた形で使われる。例えば「ヘスペラス」については

4-1) 「ヘスペラスは日の出直前に見える」 4-2) 「ヘスペラスは東の空に見える」 4-3) 「ヘスペラスは時間の経過につれて周囲の明るさに溶け込んで見えなくなる」
等であり、「フォスフォラス」については
4-4) 「フォスフォラスは日没直後に見える」 4-5) 「フォスフォラスは西の空に見える」 4-6) 「フォスフォラスは時間の経過につれて地平線下に没して見えなくなる」
等である。いま我々は4-1)〜4-6)だけを真として受け入れていたとする。もしこの時期に、これらの文において二つの名前を入れ替えた文
4-1') 「フォスフォラスは日の出直前に見える」 4-2') 「フォスフォラスは東の空に見える」 4-3') 「フォスフォラスは時間の経過につれて周囲の明るさに溶け込んで見えなくなる」 4-4') 「ヘスペラスは日没直後に見える」 4-5') 「ヘスペラスは西の空に見える」 4-6') 「ヘスペラスは時間の経過につれて地平線下に没して見えなくなる」
の真偽を問われたなら。我々はどう答えるべきか。慎重な人なら4-1')〜4-6')のような文の真偽の判断に関わることを避けるであろう。一方、様々な知識の増加によって「ヘスペラス=フォスフォラス」が真であることが知られるようになったなら、我々はためらいなく4-1')〜4-6')を真とするであろう。つまりそれまで真偽を知らなかった(知識として受け入れられていなかった)文についてそれが真であることを知った(知識として受け入れた)という意味で、我々の知識はこれらの文の分だけ増加したのである。しかし、増加があったのはあらかじめ名前「ヘスペラス」「フォスフォラス」を引用した文4-1)〜4-6)を知識として受け入れていたことによる。これに対して「フーフー=クークー」の場合、我々は「フーフー」「クークー」を引用した文を何も知らない。それ故「フーフー=クークー」を得ることによって新たに真であると知る文もなく、何の知識も増加しない。我々が a=b から何 らかの情報を得たとするなら、それは a=b そのものから得たのではなく、その命題とあ らかじめ知っていたことを合わせたものから導かれたのである。  最初に述べたように、通常対象説を取るものは、同一性命題がある情報をもたらすことを意味と意義の区別を用いることで説明する。しかし、悪名高い意義を持ち出さずとも、
・「同一性命題がもたらす情報の増加」とは「(名前の入れ替えによって得られた)真として受け入れられる文の増加」に尽きる。
・その増加した情報が「天文学的」かどうかは「あらかじめ真として受け入れていた文が天文学的かどうか」に尽きる。
という2点を理解するなら、「ヘスペラス=フォスフォラス」そのものが天文学的知識を表すという対象説論者の主張は正しくなく、これを基にメタ言語説を反駁することはできないこと、同一性命題が言語的事実のみを主張していても、それを用いて天文学的知識の増加を引き出せること、が理解されるであろう。

4.4 同一性命題を確証するもの

 3・2の分析の要点は、ある命題そのものが主張することと、その命題を用いて得られることの区別の重要性を認識することであった。これと同様に、ある命題そのものが主張することと、その命題が真であることを確証するのに必要なことを区別することも重要である。既に見たように「ヘスペラス=フォスフォラス」の真偽は、望遠鏡などによる天文学的観測なしには決して決定できないが、メタ言語説論者の言うようにこれが言語についての事実のみを主張するのであるなら、言語についての事実が望遠鏡による観測によって決定されるという奇妙なことになる。それ故同一性命題を言語的についての事実とするメタ言語説は誤っている、という批判(4c)があった。しかしこの反論は、同一性命題そのものが主張することと、その命題が真であることを確証するのに必要なことの区別を認識していないことから生じたように思われる。次の例を考えよう。ある人が、あるラジオの番組に登場するDJのA氏と、別のラジオ番組に登場するDJのB氏は、実は同一人物でないかと疑ったとする。彼は声紋を取ることで「A氏=B氏」を立証したとする。この事実を示されたなら、我々は問題なく「A氏=B氏」を受け入れるであろう。しかしさらに彼がこの同一性命題は音声学的事実を述べていると主張するなら、我々はどう対応するであろうか。彼はある命題の主張内容とその命題を確証する手段を混同していると言うであろう。その確証に天文学的観測が必要であることから「ヘスペラス=フォスフォラス」が天文学的命題であると主張するものは、このような混同を起こしているのではないかと考えられる。

 また批判(4c)には、ある命題が「天文学的命題」であるかどうかは明白に決定できるという前提がある。しかしそれは必ずしも明らかではない。天文学的命題とは天文学的対象について述べた命題である、とすることはできない。この基準では「金星は美しい」は天文学的命題であるとされることになる。天文学的命題とは天文学的観測に基づいて主張される命題である、とすることもできない。しばしば目にするアンドロメダ大星雲の写真は大口径の望遠鏡で長時間露光して得られる。すると、この基準によると、こうして撮られた写真を見て「アンドロメダ大星雲は美しい」と言うなら、これは天文学的命題とされることになる。この点が明白にされないかぎりこの批判は批判として機能しないだろう。

 「天文学的」ということの特徴付けがどうであれ、同じ批判(4c)は、メタ言語説のみならず対象説論者に対しても向けることができる。対象説の言うように、それがa=aの形で あれa=bの形であれ、同一性命題が自己自身に対する自己同一性を主張するのであるなら 、その主張内容は歴史的に永らく必然的真理とされてきたものであり、天文学的であったり生物学的であったり物理学的であったりすることは決してないであろう。そのような真理がどうして天文学的観察から得られ、それが天文学的知識を我々にもたらすのか。彼らのように論理的自己同一性そのものを非経験的であるとしてしまうと、どこに経験的要素を盛込むか(例えばそれを見いだすこと)に工夫を凝らすことになる。その一つが意味と意義の区別であり、これによってa=aの形の同一性命題は(それが真なら)内容空虚な主張であるのに対し、a=bの形の同一性命題は(それが真なら)天文学的(生物学的、物理学的)内容を持つということを説明しようとするであろう。しかしただでさえ曖昧な意義の同一性に加えて、それらが異なることが天文学的知識を表したり、それらが異なることが経験的に知られることを矛盾なく説明することは非常に難しいように思われる。これに対して、a=bの経験的側面は、まず名付けの儀式を含めた、実際の名前の使われ方(この内の 要点のみを取り出したものがメタ言語説の主張だと考えられる)、次にそれが主張される当の対象の通時的同一性、に求めるしかないように思われる。

4.5 無限後退

 最後に、メタ言語論者による「同一性命題 a=b が真であるのは、名前aとbが同じ対象 を指示するときである」という分析は、解明項に解明したい当の概念「同じ」が現われており、解明項における「同じ」を同様に分析するなら無限後退に陥るという批判を考察しよう。この批判の、無限後退が現われるという部分については、その通りであると答えざるを得ない。しかし無限後退に陥ることは解明の失敗を意味しない。メタ言語説の要点は、対象の代理は常に複数ある可能性があり、従ってそれらが同じ対象の代理にすぎないのかそうでないのかが常に問題となる。それを示すのが同一性命題である、というものである。ところで解明は言語をもって(メタ言語の中で)なされねばならない。しかしそれが言語である限り、解明に用いるメタ言語の中で再び対象の代理が複数生じる可能性がある。(もし対象言語におけるa、bの指示対象を指示する固有名がメタ言語ではAただひとつなら、「「a」はAを指示し、かつ「b」もAを指示する」でよい。)従ってそこでは再び同一性命題が必要となる。それを解明するためには再びメタメタ言語を用いる必要があり、再再度そこで同一性命題が必要となる。つまり解明で言語を用いる限り無限後退は不可避である。重要なことは、この後退は、矛盾や循環と異なり、哲学的に無意味なのではないということである。そして、タルスキによる真理の説明を理解するなら、それに対して無限後退の非難が向けられるどころか、それは重大な意味のある哲学的解明であったことが認められるように 同一性命題の必要性のメタ言語的説明を理解するなら、この後退は意味のある後退として理解できるであろう。さらに言語による解明を止め、対象の代理から対象そのものへの直接的リンクというものを考えることができるならこの無限後退は停止させられる。なぜなら対象そのものは一つしかないからである。本来同一性命題とはそのように考えられるべきものであろう。

 無限後退についてもう一言述べておこう。ある人が名前「フォスフォラス」が指示する天体は名前「ヘスペラス」が指示する天体と同じであると言うとき、二つの可能性が考えられる。一つはそこで用いられている固有名は最初に注意したように無時間的なものであると考えられる場合である。ここまではこの有名な例についてこの形を考えてきた。しかしもう一つの可能性がある。それは、そこで考えられている固有名は時間的なものである場合、すなわち、その固有名が、明け方に東の空の明るい星を指す、夕方に西の空の明るい星を指すというその局面だけで用いられているという場合である。この場合、命題「フォスフォラス=ヘスペラス」は、その局面だけで成立している指示関係が、局面的な指示対象間の通時的同一性が確立され、これによって両固有名が無時間的かつ共指示的なものになるという過程を経ることで真となる。このような場合、通時的同一性が二つの対象を一つに減らし、同時に固有名の無時間化の根拠となる。そしてまたこの場合は「同一性命題 a=b が真であるのは、名前aとbが同じ対象を指示するときである」における「名前aとb」は時間的なものであり、「同じ」は通時的同一性である。

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