同一性命題

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5 同一性命題と様相

 以下では、同一性命題と様相との関連を取り上げよう。長い間、命題 a=a はアプリオリに知られる必然的命題の、論理的自己同一性は必然的関係の、それぞれパラダイムとされてきた。これに対して、命題 a=b の真偽は経験的、アポステリオリに知られる。そのような命題が必然的であるはずはないともされた。ところが様相論理が発展するにつれ、ほとんどの様相論理体系では a=b⊃□(a=b) が成立することが明らかになり、これをどう解釈するかが一つの重要な論争点となった。 a=b の偶然性が明らかであるように思える点は、様相懐疑論者 の一つの重要な論拠となった。一方様相擁護論者の旗色は悪かった。

 このような状況は(様々な形でその論点は先取りされていたとはいえ)クリプキによって一変させられた。彼の分析の鍵は、多世界意味論による必然性の定義に基づいて形而上学的な必然性と認識論的なアプリオリ性を峻別することと、固定指示子という概念を提出したという2点にある。ある命題が必然的に真であるのはそれが真理値を持ついかなる可能世界でも真であるときであり、ある命題の真偽がアプリオリであるのは、その真偽が経験によらず知られるときである。前者は形而上学的概念、後者は認識論的概念であって、両者を混同してはならない。次に、現実世界における固有名は、その指示対象が存在するいかなる可能世界でも、現実世界と同じ対象を指示(固定的に指示)する。これらの定義によると、まず「フォスフォラス」も「ヘスペラス」も現実世界で同じ金星を指示するのであるから、「フォスフォラス=ヘスペラス」は現実世界で真である。さらにこの二つの名前は固定指示子であって(それが存在する)いかなる可能世界でも金星を固定的に指示するのであるから、その命題が真理値を持ついかなる可能世界でも真であり、それ故その命題は必然的に真である。最後に、現実世界においては「フォスフォラス=ヘスペラス」は経験的に知られる。従って彼の定義からは、「フォスフォラス=ヘスペラス」という形の同一性命題は必然的に真で、経験的、アポステリオリに知られる、ということが導かれる。 a=b は経験的、アポステリオリに知られる必然的命題の好例であるということになった。

 それでは様相論理の標準的道具立ての下で対象説とメタ言語説からどのような帰結が得られるのか。多世界意味論では、「フォスフォラス=ヘスペラス」が必然的に真であるためには、各可能世界で「フォスフォラス=ヘスペラス」が真でなければならない。ここでもし名前「フォスフォラス」「ヘスペラス」を固定指示詞とし、金星に関する間世界同定が可能であり、同一性命題について対象説を取るなら、名前「フォスフォラス」「ヘスペラス」は(金星が存在する)どのような可能世界でも金星を指示し、そして各世界において金星は自分自身に対して自己同一性を持つから、これは各可能世界で確かに真であるというのがクリプキの見解であった。ここで重要なのは、この命題が必然的であることには、現実世界の名前「フォスフォラス」「ヘスペラス」のみが関与し、ある可能世界でその世界の金星がどのような名前で呼ばれているかは、問題の命題の必然性にまったく関与していないということである。これに対して、もし同一性命題についてメタ言語説を取るなら事態はまったく異なってくる。この解釈の元で、各可能世界で「フォスフォラス=ヘスペラス」が真であるのは、各可能世界において、「その世界の名前」「フォスフォラス」と「その世界の名前」「ヘスペラス」が「その世界で」共指示的であるときである。しかしある可能世界での名前「フォスフォラス」とは一体何であろうか。例えば、その物理的なトークンが現実世界での名前「フォスフォラス」のトークンと物理的に同種の形態を取るものなのか。私はこれにどう答えれば良いのか分からない。例えば、それはその可能世界での金星を指示する固有名の一つである(一つもなければ命名によって作り出す)と規定してしまえば、既存の可能世界意味論の枠組や、「フォスフォラス=ヘスペラス」が必然的真理であるという構文論的な導出結果と矛盾しない結果を得ることができる。この規定には多くの問題がありそうだが、個体間の間世界同定より問題が多いとは言えないであろう。いずれにせよ、極めて日常的な同一性命題を極めて非日常的な様相論理の場で論じて出した結果がたとえ奇妙なものであっても、それが同一性命題の解釈から生じた可能性より、様相論理の解釈の方から生じた可能性が高いと考えるのが健全な発想ではないであろうか。

 最後に、宵の明星=明けの明星の偶然性を、同一の個体が異なる側面を見せることの偶然性で説明しようという主張の可能性について述べたい。このような主張を前面に押し出した立場は見かけないようだが、これは特に意味と意義による同一性命題の認識的価値の説明に紛れ込みやすい主張であると思われる。この主張の、同一の個体が異なる側面を見せることは偶然であるという部分は正しい直感である。しかしこれを同一性の問題と重ね合わせるとき、そこで問題となる同一性は通時的同一性である。この点は十分に注意せねばならない。

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