同一性命題

目次

KK様の御批判に対する解答

掲示板の方に、KK様から拙論に対する御批判を頂きました。私の怠惰から解答が大変遅れてしまいましたが、以下に私の解答を記します。原則として投稿頂いた順に解答致します。

1. 「50. 論文についての感想 その1」における疑問への解答

多少御批判の順番を入れ換えてお答えします。まず
>2.
> 人間の使うことばや記号は多義的であるのが
> 普通です。したがってある場合には対象説的であり、
> ある場合にはメタ言語説的に使われていても
> 少しも不思議はないと思います。
> 実際、この論文の中でも次のような記述があります。

> ある人が「x=y?」と疑うときに、正確には
> 彼は何を疑っているのか明らかではない

>  これは同一性命題の内容が曖昧であることを
> 述べているのでしょう。しかしこの論文は
> 同一性命題の内容について議論しているわけです。
> つまり、同一性命題の内容を厳密に考えようとする
> 議論しながら、一方で、当の同一性命題は曖昧だ
> というならばいったいこの論文は何を議論しようと
> しているのでしょうか。

>  ただしその場合でも
> つまり、同一性命題の内容を厳密に考えようとする
> 議論しながら、一方で、当の同一性命題は曖昧だ
> というならばいったいこの論文は何を議論しようと
> しているのでしょうか。
>  という批判は有効なわけで、同一性命題は曖昧だ
> といってしまっては話はそこで終わります。
> 「それを言っちゃおしまいよ」というわけです
という部分にお答え致します。

まず御批判で言及された「曖昧」という語ですが、「曖昧」と言う言葉 には少なくとも次の二つの用法が見て取れます。ひとつは何だか良く 分からない、という意味、もう一つは単に多義的である、という意味です。 後者は、複数の(比較的)はっきりと分かったものが場合によって使い分け られているということですから、前者とは全く違います。私が

> ある人が「x=y?」と疑うときに、正確には
> 彼は何を疑っているのか明らかではない
と言う時には、この後者の意味で「明らかではない=曖昧」と言ってい ます。それでは「複数の(比較的)はっきりと分かったもの」とは何か。 すぐに思い付くのは
・対象的に解釈された論理的同一性命題
・メタ言語的に解釈された論理的同一性命題
・通時的同一性
・類的同一性(AとBは同じ類に属する)
などであると思います。(もちろんこの4つはすぐに思い付くものであって、 4以上でも4以下でもないなどと言うつもりはありません。)私はこれらの内、 対象説は維持できない、メタ言語説は維持できる、ということだけを主張した つもりです。他の同一性については特に主題としていません。(ただし通時的同一 性は、拙論でも繰り返し強調した通り論理的同一性と混同しやすく、拙論全体を 通してこの点を明らかにしたつもりです。また類的同一性は個体間の同一性で ないので比較的明瞭に分離できるでしょう。)

そしてこれは御批判の次の部分
>1.
>  根本的なところで疑問があります。
> そもそも同一性命題が対象説に従うべきか、
> それともメタ言語説に従うべきかということを
> 決定する必要があるのでしょうか。
>  そういう発想から考えると、対象説か
> メタ言語説かという二種類の可能性ばかりでなく、
> 三種類・四種類の他の可能性があると
> 考える方が自然でしょう。とするならば
> むしろ問題は、同一性命題の内容は何種類
> に分類できるのか、どのような場合に
> どの内容に対応し、それをどのように
> 区別できるのか、そういうことになるでしょう。
の部分への解答ともなります。勿論私も「同一性命題の解釈は対象説かメタ言語 説かの二者択一しかない」という主張をなすつもりはありません。多くの場合、 ある問題に対して

「その解決案/解釈案は、N個しかない。それ以上でも以下でもない。」

を論証することは、

「その問題に一つの整合的解答を与えること」
「その問題の一つの解答は整合的ではないことを示すこと」

より遥かに難しいのが普通かと思います。また前者のような個数決定問題より、 後者のような今候補に上がっている諸説を検討することの方が生産的であるか とも思います。

ただ対象説とメタ言語説は(論理的)同一性命題解釈の二大メジャーバージョンで あることも間違いないでしょう。しかもこれら二説は様々な点で対照的であり、 これらを突き合わせながら批判検討することは同一性命題を巡る問題を一層分り 易くすることに寄与すると考えられます。

本音を言いますと「同一性命題を上の4つ(ほど)の側面に切り分けておしまいと言う のでは、それが持つ『精妙なもの』をそっくり見落とすことにならないか?」という 疑問を持つ人がほとんどではないかと思います。その精妙さとは、言い替えると 「我々が同一性命題を含む言語を用いて(他人を含む)世界と関わりを持つ時、そこ で同一性命題が我々の認識機構に置いて果たしている役割」とでも言うべきもの でしょう。私もこれに無関心でいるわけではありません。しかしこの「精妙な もの」を明確に定式化したものを私は知りません。言い替えると、私はこれら二説 とは別の明瞭な解釈を知らないのです。(何か情報があったら是非教えて下さい。 ちなみに私には完全には理解できなかったため参考文献に挙げませんでしたが 第三の道を探ろうという試みもあります。)以上が対象説、メタ言語説のみを対照 的に取り上げた理由です。



2. 「51. 論文についての感想 その2」における疑問への解答

次の御批判に進みたいと思います。
>  では本格的に自分の議論をしている第三章から
> いきましょう。ここでの論文の主張は
> 論理的自己同一性の「同一である」は(本質的に)
> 1項関係であって決して2項関係ではない。
> という部分だと思います。そこで論文では主題数
> という概念を定義しています。
これについては全く異議ありません。

さて、この章で私が目標としたのものをもう一度強調しておきたいと思います。 それは「論理的自己同一性」という属性/関係であって、同一性命題そのものでは ありません。そしてここで定義した「主題数」も属性/関係に対する概念であって、 命題に関する概念ではありません。そして、これを用いて主張したかったのは、 対象説論者達は「論理的自己同一性」なる属性(関係?)が存在し、それは二項関係 であると天下りに断定しているが、本当にそうなのか?という点です。それを反論 する為に持ち出したのが主題数の概念だったということです。まずはこれらの点を 強調しておきたいと思います。

次に強調したいのは主題数の概念についてです。拙論では主題数を
> ある述語について、その述語が成立する対象の、あらゆる可能な状況を考え
> たときの最大個数がnであるとき、その述語の主題数はnである。
と定義しました。 これを用いて
> ある述語がn項であるのは、ある述語の主題数がnであるときである。
とある述語の項数を定義しました。気を付けて頂きたいのは、私が持ち出した主題 「数」の「数」は、「対象の数」ではなく、(それと密接な関連はあるが、概念として は独立な)「項の数」だという点です。(関係ないですが、項の数を巧妙に議論に用いた ものとして、ディビッドソンが出来事を実体と考えないと論理的に対処できないこと を指摘した議論が思い出されます。)

御批判の詳細の検討に入る前に、以上の二点を強調して置きたいと思います。

さて、
>  しかし同一性に対してその主題数が1であることの
> 説得的な説明がありません。もし同一性は同じものの
> 比較なのだから一つだという理屈ならば、
> それは第二章で紹介されている「古くからのパラドックス」
> と全く同じ内容を言っているに過ぎません。
という御批判ですが、これは違うのではないかと思います。仮に「論理的自己同一性」 なる属性があったとしても、それを持つ「対象」は一つであるという直観を否定する ものは、どのような同一性命題の解釈を取るものでもまずいないのではないでしょう か。もしこれを否定するなら、最初から二つ(以上)のものに対して論理的自己同一性を 主張していることになります。こういう主張は(維持できなくはないかもしれませんが) かなり破天荒なものだと思います。「論理的自己同一性なる属性(関係?)を述語として 表したものの項数」ではなく、「論理的自己同一性なる属性を持つ対象」の数はやはり 1なのではないでしょうか。(そうでないと言う人は、結局対象説論者のように始めから 「論理的自己同一性は二項関係である」と決めてかかり、そこから「その二項に適合 する対象」を二つ考えているとしか思えません。)これを認めて頂けるなら、定義より 「論理的自己同一性」の主題数は一となります。

また、同じことですが、
> このパラドックスに対応するためにフレーゲは
> 意味と意義を区別したわけです。ですから
> フレーゲに言わせれば同一性は主題数2なのです。
という御批判にも疑問を感じます。(フレーゲについて詳しくは知らないのですが) 彼が「論理的自己同一性」なる極めて形而上学的な概念を真面目に取り上げたとして も、それを持つ対象が1つであることを否定しはしないと思います。ちなみに関係 ないことですが、勿論Sinnは「対象の与えられ方」であって、これが幾つあろうと 主題数には関係しません。というか、そもそもこれは属性に関する概念ではありません。

ここまで来れば、この主題数を用いて「論理的自己同一性なる属性があったとして も、それはせいぜい一項関係である」と主張すれば私の議論は完成です。私はこの ような理屈で論理的自己同一性は一項関係だと論じたが、対象説論者達はどのような 根拠で論理的自己同一性は二項関係と主張するのか、なぜ「赤い」は二項関係でない と主張するのか、を教えてくれ、とボールを投げられます。対象説論者は
・論理的自己同一性の主題数が1であることは誤り。
・論理的自己同一性の主題数が1であることと論理的自己同一性が2項述語である
 ことは関係ない。
・主題数の概念そのものが怪しい。
等の反論を構築することになるでしょう。

(ちなみに対象説論者は論理的自己同一性を持つ対象が一つであることそのもの の根拠は何だ?それが「直観」というのなら論理的自己同一性という関係が二項 であることも「直観」だ、と開きなおるかも知れません。しかしそうすると 「赤い」は二項関係であるというアマチュア哲学者の「直観」も排除できなく なります。)

以上の議論に対して
>  つまり、主題数を定義しても、単に問題を言い換えた
> だけで議論は何も進んでいないのです。あるいは、
> 主題数がいくつかということこそこの章の議論の
> 核心であって、その部分について、同じものの比較だから
> 一つというだけで済ますわけにはいかないのです。
> この論文の用語法を借りれば、主題数がいくつかという
> ことこそをみんなが議論していた内容なのです。
という評価を下されることにも疑問を感じます。繰り返しになりますが、ポイント は主題数の議論は、同一性命題ではなく論理的自己同一性という属性(関係?)に ついての議論であると言う所です。(もちろん私は同一性命題は論理的自己同一性 なる概念とは無縁であると思っています。その主張こそがメタ言語説です。)


3.「52. 論文についての感想 その3」
 「53. 論文についての感想 その4」
 における疑問への解答


これらの御批判は単にスペースの関係上分割されただけだと拝察いたしますので、 一体としてお答えします。
> 次の第四章に行きましょう。
> 名前に準ずる対象の代理を持つことなしに
> ヘスペラスとフォスフォラスの同一性を疑うことはできない。
> という主張は、「名前に準ずる」という内容が曖昧なので
> (おそらく対象を指示する機能を持つということだと思いますが、)
> 正確には議論できませんが、基本的には全くその通りです。
ここまでは問題なしです。
> 実際対象そのものを扱うことは我々にはできません。
> 「金星そのもの」「ヘスペラスそのもの」を我々は見ることも
> 聞くこともできません。我々が見ることができるのは
> 「金星から地球に向かって発せられた光」であり、
> 金星そのものではありません。しかもその光についても
> 光について直接思考することはできません。光を直接感じることは
> できますが、光を直接思考することはできません。
> 思考する場合には光の概念について考えるのであって、
> 光そのものについて考えることはできません。
私もこれに近いものを書きましたが、こう述べられてみるとなんとなく引っかかる ものも感じます。例えば
> できますが、光を直接思考することはできません。
> 思考する場合には光の概念について考えるのであって、
> 光そのものについて考えることはできません。
について、「我々は対象そのものを思惟することは出来ず、その概念について思惟 することのみが可能である」とまとめたとすると、たちまち「対象そのものを思惟 することとその概念について思惟することはどう違うのだ」と突っ込まれそうです。 私が反論しなければならないのは「我々が言語を持たなかったとしても同一性に ついて考察できるのだからメタ言語説は誤っている」という批判ですから、私は とりあえず「思惟には名前に類する物が絶対に必要で、たとえ我々が言語を持たな かったとしても、それらについてメタ言語説は成立する」という反論を組み立てた 訳です。本音を言えば言語と思惟、思惟対象について深い考察を持っている訳では ありません。お恥ずかしい限りです。
> ただ「名前に準ずる対象の代理」は一つの対象に対して
> 必ずしも一つではありません。それをフレーゲは一つの意味に
> 対応する複数の意義と呼んだわけです。つまり
> フレーゲは「名前に準ずる対象の代理」という概念を
> 否定しているわけではありません。
その通りだと思います。フレーゲに取っては対象を一意に特定できるものであれば 固有名だろうが記述だろうが単なる「名前」で括ってよいと考えるでしょう。
> 「対象の代理」である限り、対象となんらかの関係を
> 持っていなければなりません。ではどういう関係なので
> しょうか。それを意味と意義という概念で分類し、
> 整理しようというのが対象説です。言い換えれば
> 対象の代理を用いて記述された文は、対象と
> 何からの言語外的な関係を持っていなければらない、
> というのが対象説の基本理念でしょう。
これはどうでしょうか。少なくとも私は「対象説」を「同一性命題で主張される のは論理的自己同一性という関係である。一切の言語的現象はその命題と無関係で ある。」という説として理解しています。意味や意義はその説で説明が難しい認識 的価値の問題などの説明のための、いわば後付けの付加的説明に過ぎないと思って います。というわけで
> それに対して同一性命題では
> 対象の代理間の関係だけが言及されていて
> 対象との言語外的な関係は一切関係ない、という
> のがメタ言語説なのでしょう。
これには全く異議ありませんが
> 対象説は同一性命題が対象の代理間の
> 関係を指示しているということを否定して
> いるのではなく、そこで主張されている対象の代理間の
> 関係には、対象について言語外的な関係が対応している
> と言っていると考えられます。
という規定は「(私の私的な)定義により当てはまらない」となります。実際対象に ついて論理的自己同一性を考え、対象の代理についてメタ言語説的説明(にSinnに よる説明を絡ませたもの)を与えるというアマルガム説がフレーゲによる同一性命題 解釈かと思います。しかし私が拙論で標的にしていたのはそういうものではなく、 同一性命題の主張内容は論理的自己同一性のみであるという「純粋」対象説と、その 主張内容は名前のみに関わるという「純粋」メタ言語説(+固有名の直示理論)とを 対比させるというものでした。従ってフレーゲ的解釈は私の今後の課題と言うことに なります。とはいえ、難解で有名な Sinn/Bedeutung 説は私には荷が重すぎます。
> それゆえ「フーフー=クークー」は
> 対象説の考え方に基づけば無意味ですが、
> メタ言語説に基づけば有意味でありえます。
> なぜならば、フーフーもクークーも対応する対象を
> 考えることができませんから、対象についての
> 主張ではありません。しかしメタ言語説では
> 対象と無関係に言語内的な関係があればよいの
> ですから、例えば、「私はフーフーが好きだ」という文を
> 言語体系に付け加えれば言語内的には有意味となります。
> しかし「フーフー」が何者であるか(それが
> 指示している対象が何か)が分からない限り
> 対象説では無意味です。
これは参った。私が挙げた「フーフー=クークー」という文は「a=aは我々に情報 を与えないが、a=bは我々に情報を与える」という主張は誤ってはいないか、という 主張の傍証として提出したものです。と言う訳で私はフーフー(クークー)は存在 する何者かであると考えています。(でないとこの反例は、ここでの議論とは別の 非存在命題という話に落ち込んで行きます。)ただそれが「存在している」という 以上の情報を与えられていないとき、そこから得られる情報は一体何か?という問い だとも言えます。私の書き方が良くなかったと思いますが、以下ではこれは存在する ものだと考えて下さい。私の不手際で基本的な誤解を与えてしまったようですので、 ここでの御批判への解答は保留とさせて頂きたいと思います。ただ(私の言う)対象説 では、ある文がある言語体系に含まれようが含まれまいが、いかなる同一性命題の 有意味性/無意味性もそのこととは無縁であるということを付け加えておきます。
> まだ議論するべきこともあるかもしれませんが、
> 差し合ってこのくらいにしておきたいと思います。
本当にありがとうございます。せっかく真剣に検討して頂いたのに半年も放置して しまうという酷い無礼をどうかお許し下さい。御批判によって私も一層考察が深 まったと感じます。時間はかかるかも知れませんが折に触れ御批判を頂けたらと 願います。ありがとうございました。