同一性命題

目次

1 導入

1.1 問題点の整理

 これから考察しようとするのは、「aとbは同一である」という形の命題で、かつa, bはいずれも固有名であるようなものである。(1)以下ではこれを「同一性命題」と呼ぶ。以下で名前というときには固有名を意味する。これはいかなる記述も媒介せず、直接対象を指示すると考える。(2)本論文はこの命題の二つの解釈について論ずる。これによって、この命題について、それは何を主張しているのか、また我々の持つ言語の中で、それはどういう位置にあって、どういう役割を果たしているのかを明らかにすることが可能になると考える。

 混乱を防ぐため、まず最初に以下の考察において厳密に区別すべきものを挙げておくのが良いと思われる。第一に挙げねばならないものは「同一性命題とは何か」という問いと一般的な「同じとは何か」という問いとは厳密に区別されねばならないという点である。これは、例えば存在命題を考察することと存在という概念そのものを考察することは違うといえば、大雑把ながら理解してもらえると思う。存在は様々なカテゴリーに対してそれぞれの仕方で語られるべきなのか、それともおよそ存在するものにはすべて同じ仕方で語られるのか、といった問いは存在そのものへの問いである。これに対して存在命題と単称命題、全称命題との関係や、存在命題の真理条件等を議論することは存在命題の考察である。同一性の場合「すべての同一性とはある類の元での同一性に他ならない」という相対的同一性や通時的同一性、様相論理における間世界同一性などが一般的な「同じとは何か」という問いに属することになろう。

 このうち通時的同一性、ないし「テセウスの船の問題」と呼ばれるものについては特に注意が必要である。同一性命題の主張内容に通時的同一性がどのように関わっているかを正確に見積もることは同一性命題の問題を論ずるときに一番注意するべきことである。この点は本論文で最も強調したいことの一つである。ここでは以下の議論において必要最小限な点を押さえておこう。

1.2 通時的同一性と固有名

 我々が時空内に存在する対象に対して何かを主張するとき、しばしば本来必要な時間的側面の考慮を略することがある。例えば我々は「エドガー・アラン・ポーはアルコール中毒であった」を真とするが、彼は若い頃はアルコール中毒ではなかったのだから、本当はどの時点でこの命題を考えるのかを明示しないとこの命題の真偽を言えないはずである。またポーはもはや存在しないので、この命題は存在しない対象についての命題であり、それなりの考察をしないとならないはずであるが、我々はそのような考察抜きにこれを真とする。これを見ると、この種の命題の場合、その命題が真である時点が一点でも存在したなら、必要な時間的側面の考慮を略して真であるとするように見える。 しかしこれはあくまで厳密性を犠牲にした簡略法で、この基準によれば「エドガー・アラン・ポーはアルコール中毒であった」「エドガー・アラン・ポーはアルコール中毒ではなかった」のいずれも真となる。我々はこれを受け入れず、時間的側面を考慮することになる。「1849年にはエドガー・アラン・ポーはアルコール中毒であった」「1809年にはエドガー・アラン・ポーはアルコール中毒ではなかった」は問題なく真であるように思える。一般に、「ある瞬間」で世界を凍結させれば、そこでは矛盾律は保持されていると考えられている。

 述語付けについてそうであるなら、指示についても同様に考えるべきなのであろうか。次の文を考えよう。

1) 「木下籐吉郎は清州城を三日で修理した」
2) 「豊臣秀吉は九州を征伐した」
これらの文は真であるが、次の文はどうであろうか。
1') 「豊臣秀吉は清州城を三日で修理した」
2') 「木下籐吉郎は九州を征伐した」
もし指示を、述語付けと同じように、厳密には各瞬間ごとに考えねばならないなら、いずれの文も真とは言いがたい。前の文では、彼が清州城を修理した時には少なくとも名前「豊臣秀吉」と彼の間に指示関係が成立していたとは考えられないからである。後の文についても、彼が豊臣姓を名乗るようになった後にも木下姓が通用していたとすると問題はないかもしれないが、彼が豊臣姓を名乗るようになったとき木下姓を「捨てていた」なら問題がある。だが我々は1')2')のいずれも真とするのが普通である。時空内にある対象についてのある名前の指示の成立、不成立については時間的側面を考慮しないのは、その対象がその名で指示された時点が一点でも存在したなら、それ以外の時点でもその対象はその名で指示されるという基準によっている、と考えられる。(この点は述語付けの成立不成立におけるそれと対照的である。)これを「指示の通時的拡大」と呼んでおこう。この考え方では、ある固有名は各瞬間ごとに瞬間的対象を指示するのだが、それがその対象が存在する限り連続的に成立している、と考える。しかし「指示の通時的拡大」の背後には通時的連続性がある。つまり清州城を修理した人物と九州を征伐した人物は通時的に連続であるからこそ指示の通時的拡大が可能なのである。そしてもちろん、上の例のように名前を変えたという場合のみならず、ある一つの固有名を使い続けることができることが可能な背景にはこの原理がある。逆に通時的同一性が明確でない限り、固有名は使用できない。例えばある変り者が一匹のアメーバを「ピエール」と名付けてペットとして飼っていたとする。ところがこのアメーバが分裂して二匹になったとき、彼はいずれを「ピエール」と呼ぶべきだろうか。あるいは「ピエール」という名前を捨てるべきであろうか。もし捨てるならそれはかつての「ピエール」がいなくなったからなのか、それともただ単に、どちらかが「ピエール」であるのは確かだが、それがどちらかを決定できないに過ぎないからなのか。彼がそのように悩むのは個体としてのアメーバについての通時的連続性の原理が不明であるからである。以下の議論において、固有名はこのような拡大の下に用いられているとする。

 同一性命題について考察する際に注意せねばならないのは次の点である。我々が固有名を使うときには既にある程度の通時的拡大の下に使われている。従ってヘスペラスやフォスフォラスが前提としていた通時的拡大同士がつながるという形で同一性命題の機能を説明したくなる誘惑に駆られる。しかしこれは通時的拡大の拡大という固有名の側の問題に過ぎず、同一性命題の機能の問題とは切り離して考えるべきである。これはむしろ通時的同一性の問題に属する。この点を忘れてはならない。

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