同一性命題
2 同一性命題の二つの解釈
2.1 対象説とメタ言語説
同一性命題については、その解釈を巡って長い議論の歴史がある。同一性命題「a=b」 の解釈として広く認められているのは、「対象 a は対象 b に対して自己同一性という関係を持つ」という解釈と、「名前 a と名前 b は共通の指示対象を持つ」という二つの解釈である。以下では前者を対象説、後者をメタ言語説と呼ぶ。
対象説の要点は次の通りである。まず同一性命題において主張される同一性(以下では彼らの言う同一性を「論理的自己同一性」と呼ぶ)はあくまで対象間に成立する関係である。それ故同一性命題は対象についての主張であって、言語についての主張は含まれていない。論理的自己同一性はおよそ存在する対象すべてが自身に対して持つ性質である。時空内にある対象についてはそれは各瞬間ごとに成立していると考えられている。一方メタ言語説の要点は次の通りである。それによると、同一性命題によって主張されるのは、二つの名前が共通の指示対象を持つ(以下では、これらの名は「共指示的である」「共指示的関係にある」と呼ぶ)ということである。つまり同一性命題はあくまで言語表現に関する主張である。これらの解釈は同一性命題を巡る様々な問題に異なった解答を与える。例を挙げよう。
同一性命題について古くから一つのパラドックスが指摘されている。大雑把に言うと「同じ一つのものについて同じと言うことは自明の真理であり、違う二つのものについて同じと言うことは自明の虚偽である。いずれにせよ同一性命題は自明の命題であって、内容空虚である。しかし明らかにある同一性命題は内容空虚ではない」というものである。同じ問題を別の形で述べるものとして「およそ存在するあらゆるものについて、それは自分自身と等しいと常に言えるが、なぜある同一性命題は内容空虚であり、あるものはそうではないのか」「a=b は内容的に a=a と何ら変わらないはずであるが、前者は我々に情報を与えるのに対し、後者は全く情報を与えない。また前者の真偽を確立するには何らかの経験が必要となるのに対して、後者の真偽を確立するのには何の経験も必要ない。この違いは何か。」などがある。メタ言語説を採る者は、これらに現われる同一性命題を対象説によって理解している限り、これらはパラドックスに見え続ける、と言うであろう。対象説によると、同一性命題はあるものについてそれが自分自身と同じであると主張するに過ぎず、それをどう表現するかには全く無関係である。しかしパラドックスの第三の形で特に明らかなように、同一性命題の認識論的価値はそれを表現する形式の違いに依存する。これは、同一性命題が言語についての命題であるなら自然に理解できる。メタ言語説によるなら、a=b は「名前 a と名前 b は共指示的である」ことであり、a=a は「名前 a と名前 a は共指示的である」ことであって内容的に全く異なる。従ってパラドックスは前半で阻止される。第一の形、第二の形についてはそもそも対象説を前提としており、最初から問題とならない。これらの議論についての検討や対象説からの再批判は後に取り上げるとして、ここではメタ言語説の方がもっともらしく見える。
これに対して対象説がもっともらしく見えることもある。様相論理では、かなり弱い体形でも a=b⊃□(a=b) が成立する。もしここに現われる同一性命題をメタ言語説で解釈するなら、ある対象がどのような名前で呼ばれるかは全くの偶然であるはずだから、この式は到底受け入れがたいということになる。これに対して対象説を採るなら、ある対象がそれ自身と同一であるのはどのような名前で呼ばれようと関係なく常に正しいのであるから、この式は極めて当然のこととして受け入れられる。同一性命題の様相的地位は、第5節で論ずる。
2.2 同一性命題の解釈の歴史
次に同一性命題の解釈についての歴史的経緯を見てみよう。同一性命題の認識的価値の問題はフレーゲによって取り上げられている。彼は「概念記法」(1)では明確にメタ言語説を採っていたが、後の「意味と意義について」(2)でこれを捨てることになる。彼がメタ言語説に満足しなかったのは「フォスフォラス=ヘスペラス」のような同一性命題が我々にもたらす知識は、単に二つの名前が一つの対象を指示するということだけに止まらないと考えたからである。例えばある家庭に子犬がもらわれてきたとき、家族の意見が一致せず、ある者はそれを「タロー」と呼び、別の者は「セバスチャン」と呼ぶようになったとする。このときには「タロー=セバスチャン」は確かに二つの名前が一匹の犬を指示するという内容を持つに過ぎない。しかし「フォスフォラス=ヘスペラス」によって表されるのは、単に二つの名前が一つの対象を指すということではなく、それ以上のもの、つまり名前「フォスフォラス」はある対象を「ある特定の仕方で」指し、名前「ヘスペラス」はその対象を「別のある特定の仕方で」指すということである、と彼は考えたのである。これらの名前は、一つの対象に勝手に付けられた複数の名前にはないものを持っているのであり、それらの名前によって主張された同一性命題は「本質的な知識」を我々にもたらすと彼は言う。これを説明するために彼が導入したのが意味と意義の区別である。(固有名の場合の)意義とは、上に述べた名前と対象の結びつきの「ある特定の仕方」であり、意味とはそれが指示する対象そのものであるとされる。そしてある同一性命題が認識的に価値があるのは、異なる意義を持つ固有名が同一の意味を持つことを示すからであるとされる。(具体的には、例えば明け方東の空に見え、やがて太陽の明るさで見えなくなる…あのフォスフォラスは、実は夕方西の空に見えすぐに水平線に沈んでしまう…あのヘスペラスと同一であったのだ、という知識である。)この時期の彼の同一性命題の解釈がメタ言語説なのか対象説なのかは微妙で、見解が別れるようであるが、一般に、この区別を手にすることで彼は再び対象説に戻ることができたとされる。そして彼の独自性は、名前に意義という側面を持たせることで同一性命題の認識的価値を説明したところにある。
同じ時期のラッセルは、同一者の不可識別の原理と不可識別者の同一の原理(を合わせた双条件法)によって同一性を「定義」しようとした。(3)事実現在でも二階の論理ではこの方法を取り、同一性の公理を置く必要はないとされる。彼の「数学原理」は実質的に高階の論理であり、自由にこのような方策を取れたのである。論理学としてはこれで形式的に問題ないが、彼はこれに形而上学的主張を読み込んだ。彼ははっきり対象説を取ったのである。これに激しく反発したのは「論理哲学論考」におけるウィットゲンシュタインであった。(4)彼の主張は論考全体の体系において考慮されるべきであり、その体系に対してはいくつかの解釈がある。しかし同一性については、それが必要になるのは名前と対象の一対一対応が実現されていないからに過ぎず、名前に対象との一対一対応という条件を付けることで最終的には同一性命題を消去できるという形の「消去説」を取ったのだと見るのが自然である。一方論理的自己同一性については、同一性のパラドックスを挙げてそれに対する疑念を表明する。このような状況から、彼は同一性命題をメタ言語説的に解釈していたと見ることができる。
しかしたとえ名と対象の一対一対応が実現されたとしても、同一性命題が不要になるとは限らないことをクワインは指摘した。(5))もしある言語が変数を持っているなら、二つの異なる変数が同じ値を持つ可能性を表現できなければならないが、このために同一性命題が必要になるのである。従って完全な消去説は不可能である。(ただし彼は明確に対象説を取っている。)しかし何らかの機構によって固有名がすべて除去され、変項のみを含む体系については、同一性記号は変項の間のみに現われる関係であるという新たな主張も可能である。しかし本稿ではこの立場には触れない。
本論ではメタ言語を擁護し、対象説を批判する立場を採る。以上の予備的議論のもと、対象説の批判、メタ言語説の擁護へと議論を進める。