同一性命題

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3 対象説批判

3.1 反射的な二項関係

   同一性命題の対象による読みには、常にある不自然さがつきまとうことは、同一性のパラドックスとして古くから知られていることを既に述べた。つまり「二つの対象a,bが同一である」ことは単純に矛盾している。二つのものは決して一つのものではない。もし二つであると思っていたなら我々は単純に誤っていただけである。しかし最初から一つであると知っていたなら、「二つの対象」と言うことは単純に虚偽を主張することである。対象説を取るなら、この「一つのものと二つのもの」という緊張をどうにかして解かねばならない。

 この批判に対して、常に対象説論者が持ち出すのは、反射的な二項関係による説明である。例えばクリプキは「ある対象が自分自身に対してある関係を持つこと」が自然に見える例を持ち出す。(1)例えばある人にとっての最大の敵や、最も厳しい批評家は自分自身であるかもしれない。このように反射的である関係はいくらでも見られる。もしキケロはキケロに対して最も厳しい批評家であるなら、確かにそれは対象キケロについての主張であり、それ以外の何かについて何かを述べているのではない。そして「…は…に対してもっとも厳しい批判者である」は確かに二項関係である。彼によると同一性は「最小の反射的関係」である。これによって、同一性命題は、ただ一つの対象についての主張であり、同時に二項関係であるという点で(その項に立つ)二つのものについての主張であるとすることができる。こうして緊張は解消される。

 反射的な二項関係による説明は巧妙な誘導であるように思われる。この説明のもっともらしさは「ある対象がそれ自身とある関係にある」に対して二重思考を行なうことによって生じる。まずそう主張される対象は「対象」と「それ自身」なのだから、一つしかない。一方その関係は二項的であるので、その関係が成立するのなら、その関係の下にある何かが二つある。それは「対象」と「それ自身」である!こうして「一つのものと二つのもの」という緊張は魔法のように解消される。彼らのやり方では、1は「1つの対象」の1であり、2は「二項関係」の2なのである。従って彼らの説明の成功は、同一性は一項関係ではなく、二項関係であることを説得的に示すことができるかどうかにかかっている。彼らにとっての同一性とは論理的自己同一性であるから、これは「論理的自己同一性はなぜ一項でなく二項関係なのか」という疑問である。以下この問題を考察しよう。

3.2 論理的自己同一性は二項関係か

 まず最初に注意するべき点を述べよう。現実に我々は「aとbは同一である」と言う表現を持っているのは事実である。そしてこれから存在汎化によって抽出した述語は二項述語となるのは否定できない。しかしその述語の正体が論理的自己同一性かどうかはもちろん明かではない。従って「aとbは同一である」から二項述語が抽出されることから論理的自己同一性が二項述語であることを導くのは単純な誤りである。従って議論の出発点は論理的自己同一性そのもの、すなわち「ある対象が自分自身と同一である」に置かねばならない。

 もしある一つの対象aが赤いことを主張したいなら、それを名前を一つだけ用いてF(a)の 形式で述べるのが普通である。ではなぜ、ある一つの対象aが自分自身に等しいことを主張するのに、それを名前を一つだけ用いてF(a)の形式で述べず、わざわざ名前を二つ用いてa=aと述べるのであろうか。そもそもある対象が自分自身と同一であることは、それが名前aで指示されるかbで指示されるかとはまったく無縁であるはずである。その対象を指示するために名前が一つ必要であることは当然としても、その主張を名前を二つ用いて表現する必要はないはずである。もし同一性命題は一項述語を用いてF(a)の形式で表現されるべきなら、それをa=bと表現するのは誤っている。これは一項述語を用いてF(a)かF(b)の形式で書かれるべきであって、どちらかの名前はまったく余分なものでしかない。

 この批判に対して、対象説論者は以下のような反論を持ち出すであろう。すなわち、このような主張は「ある対象が自分自身と等しい」という表現に拘り過ぎている。「対象a が自分自身と等しい」という主張は本来の二項述語「aはbに対して論理的自己同一性を持つ」の二項に同じ名前を代入した特別な例に過ぎないのだ。すなわち、正確にはこれは「aはaに対して論理的自己同一性を持つ」というべきなのである。そしてこれは「aはbに対して論理的自己同一性を持つ」と形としてまったく同じであるし、内容的にはいずれも「対象a(対象b)が自分自身と等しい」に過ぎない。

 対象説論者はさらに次のように続けるだろう。論理的自己同一性が二項であることを疑うものは多分次のような推論をしているのではないか。述語論理では、二項述語F(x,y)の変数を同じものに置き換えて(これを対角化と呼んでおこう)できたF(x、x)は、単に変数を一つしか含んでい ないので、一項述語G(x)と書ける。(これを「FはGに還元された」と言う事にする。)前段のように対象説を批判するものは、対角化された二項述語「xはxと同一である」を一項述語「xは自分自身と同一である」に還元する。( 「自分自身を」という表現が気にかかるなら、「xは自己同一る」と言っても良い。)もしこの還元が可能なら批判者の言うとおり必要な名前は一つで良いだろう。

 対象説論者はだがこれは誤っていると言うであろう。これは次のように示される。いま、ジョンは自分自身を批判したとする。これから「ジョンが批判するものが存在する」が言える。つまり∃x(ジョンはxを批判する)は真である。これは二項表現「ジョンはジョンを批判する」の後の固有名だけに存在汎化を行って得られるが、一項表現「ジョンは自己批判している」からは決して直接には得られない。後者を前者に翻訳した後、後の固有名だけに存在汎化を行って初めて「ジョンが批判するものが存在する」が得られる。つまり「ジョンは自己批判している」と「ジョンはジョンを批判する」は同等な表現なのではないのである。しかし後の固有名だけに存在汎化を行うことができるのは、そこに現われる述語が二項であるからに外ならない。「ジョンは自己批判している」ではそれが還元されてしまっているから問題の存在汎化が不可能なのである。さて、「ジョンはジョンを批判する」は対象ジョンについて何かを述べる主張であって、それ以外の何かについて何かを主張するものではない。またこの主張は、前の固有名も後の固有名も同じ人を指示しているのであるから、「ただ一つの」対象についての主張である。それにも関わらず、前の固有名と後の固有名の担う役割は異なる。それは∃x(xはジョンを批判する)と∃x(ジョンはxを批判する)はまったく異なる命題で あることから分かる。こうして我々は対象が一つであることと、命題中での固有名の役割が違うことを、同時に認識する。これは問題の述語が二項であるから可能なのである。つまり一般にF(x、x)とそれを還元してできた一項述語は全く異なる命題なのである。一般にF(x、x)と還元された一項述語G(x)が全く異なる命題なら、同様にx=xと還元された一項述語もそうであろう。論理的自己同一性はa=aという形で表されるべきである。以上が対象説論者の作り上げると思われる第一の反論である。

 対象説論者はさらに次のような第二の反論を挙げるであろう。もし同一性命題が「ある対象が自分自身と等しい」ということを主張する一項述語であるなら、その否定は「ある対象が自分自身と異なる」となるはずである。もちろんこれは常に偽である筈である。所が「チンギスハーンと源義経は同一でない」のように真なる否定同一性命題は幾らでもある。「否定同一性命題は常に偽である」という奇妙な主張は、本来の二項述語から還元された一項述語(の否定)だけを考えているから産まれるのだ。「チンギスハーンは 源義経に対して論理的自己同一性を持たない」には何の問題もないであろう。これもまた、論理的自己同一性が二項関係であることを示している。

 最後に対象説論者は次のように言うだろう。仮に「aとbは異なる」という命題を差異性命題と呼ぶとしよう。この命題における「異なる」(奇妙な語であるが、これを論理的自他差異性と呼んでおこう)は1項でも3項でもなく、明らかに2項関係であることは、反対象説論者でも認めるだろう。「異なる」が2項関係なら、その否定「同一である」も2項関係であろう。これこそ論理的自己同一性は1項でも3項でもなく2項関係であることを決定的に示す議論である。

 これらの対象説論者の議論に対して、次のような再反論ができる。もしあるアマチュア哲学者が「「xは赤い」は従来一項述語で表されていたが、私は、赤いという関係はある対象が 自分自身に対して持つ関係であり、それ故二項関係「赤い(a,a)」で表されるべきであることを発見した。その外延は赤いものとそれ自身からなる順序対のすべてからなる集合である」と主張したなら、我々はいかに対応するべきか。彼にそれを許すなら、そこから存在凡化を二度行なうと二項述語「赤い(x,y)」が得られることになってしまう。同じようにしてあらゆる一項述語は実は二項述語であると主張できる。対象説論者は一般にF(x、x)は 一項述語に還元できないと言うのだから、彼らは自分達が展開した反論でこの奇妙な二項述語も擁護せざるを得なくなる。

 ここで我々に必要なのは、「真性の」二項述語と疑似二項述語を区別できる基準であるように思われる。「aはbを批判する」についての議論を反省すれば、それが真性の二項述語であると考えられるのは、その主張が異なる二つの対象a,bについて成立する事態を我々が理解しているからであるという条件がすぐに考えられる。具体的には、我々は「ジョンはポールを批判する」に対して、ある対象ジョンがそれとは異なる対象ポールを批判するという事態を理解しているからこそ、「ジョンはジョンを批判する」において、前の「ジョン」と後の「ジョン」が異なる仕方で命題の意味に寄与することを理解するのである。(もちろん「批判する」という関係の非対称性も理解を助けるであろうが、本質的に非対称性が必要なのではない。)ここで仮に「異なる二つの対象a,bについてF(a,b)が成立する事態が認識可能である」ような二項関係F(x,y)を「真性の」二項述語と呼ぶことにしよう。この概念を用いると次のように言える。すなわち、「xはxを批判する」は確かに「xは自己批判する」に還元されない。その点では対象説論者の反論は正しい。しかしそれ はあくまで「xはxを批判する」が「真性の」二項述語「xはyを批判する」から対角化によってできたものであるからに外ならない。逆にある二項関係と思われるものF(x,y)が「真性の」二項述語でないなら、それは一項述語で表されるべきであり、本来F(x,y)のような表現は許されない。例えばアマチュア哲学者の二項述語「赤い(x,y)」に対して「真性さ」の条件を適用すると、「異なる二つの」対象a,b について「赤い(a,b)」が主張される事態を我々は理解できない。つまり「赤い(x,y)」は真性の二項述語ではない。

 それではこの二項述語の真性さの基準で同一性関係の真性さを判定するとどうなるのか。あえてこれを行うと、我々は異なる対象の間に同一性が成立するという状況を決して認識することはないので、同一性は真性の二項述語ではないと言えそうである。しかし事態は単純ではない。真性さの基準は「異なる」という概念に依存しているが、これを同一性に適用することは、基準で用いられる概念(の否定)を、その概念自身を用いて判定するということになる。またこれが許されるなら、逆に対象説は次のように反論できる。基準の自己適用が認められているのなら、「異なる」は問題なく真性の二項述語とされるであろう。そうであるなら、同一性命題は「aとbは異なる」の否定であり、二項述語の否定はやはり二項述語であるから、同一性は真性の二項述語であることが証明された。一方同基準を直接適用すると「同じ」は真性の一項述語とされる。これは同基準が矛盾を生じさせるような適用不可能なものであることを示すのだ、と。真性さの基準の自己適用からは矛盾する結果が出るように見える。

 疑似二項関係を排除するためにも、ある述語の項数を整合的かつ適切に決定できる基準が必要である。ここで次の定義によって「主題数」の概念を導入しよう。

ある述語について、その述語が成立する対象の、あらゆる可能な状況を考えたときの最大個数がnであるとき、その述語の主題数はnである。
「あらゆる可能な状況を考えたときの最大」とするのは「自己批判」のような縮退の場合を考えてのことである。この主題数の概念を用いて、ある述語の項数を次のように定義する。
ある述語がn項であるのは、ある述語の主題数がnであるときである。
これによると「赤い」や論理的自己同一性の「同一である」は1項関係であって決して2項関係ではない。一方「異なる」は2項関係である。ここまでの議論が正しければ、逆に対象説論者の反論は自身の立場の矛盾を明らかにする。

1)項数の原理では、論理的自己同一性は1項関係、論理的自他差異性は2項関係である。 2)論理的自己同一性と論理的自他差異性は互いの否定である。 3)1項述語の否定は1項述語、2項述語の否定は2項述語である。 これらは矛盾する。もちろんこれは「同一である」を論理的自己同一性と解釈したからである。このように矛盾を生じさせることから、そもそも論理的自己同一性や論理的自他差異性などの属性は最初から存在しないと解釈せざるを得ない。

 主題数の概念に対して対象説論者の次のような反論があるかもしれない。主題数の原理における1つ、2つという概念は、結局同一性を持ち出さねば定義できないのではないか。例えば(ある可能な状況において)ある関係が二つの対象について成立すると考えられるのは、結局その状況においてその関係がある対象とそれと「異なる」対象について成立することを認識するからではないのか。この批判に対しては、そこで言われる「異なる」は、より広い意味での「同じ」に属する問題であり、同一性命題の解釈の問題とは独立に考えるべき問題であると解答することができる。

 以上の批判は結局「二つのものと一つのものの矛盾」という批判の細密化であることを最後に付け加えて、次にメタ言語説の擁護へと進むことにしよう。

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